2016年08月16日

健全

健全と言う言葉は何かしら良い響きに聞こえる。健康で正しく安全で将来が明るく健全で在れば、全てが上手く行くような錯覚さえ起きてくる。実際問題健全で在るべきものが、健全と言われ続けて健全であったことがないのではないだろうか。時代の流れと伴に健全さも大きく変わってきて、いつの間にか健全でなくなることが多い。

若く逞しい時期に多くの問題は容易に解決されるが、年老いて物理的な力が衰えるにつれて解決される問題にも制限がかかるようになる。特に筋力を必要とするような問題は、最初からはっきりしていて対応できないことも明白になってくる。そんなとき一抹の不安と寂しさを感じることになるけれど、これも致し方ないことのようだ。

60歳を超える年齢になり最初にぶっかったのが、筋力の問題であろう。これまでは殆ど問題にもしなかった筋肉の疲れが、翌日になっても残っているという考えられないことが起きている。それをどのように処理して行くかも大切な対策の一つである。簡単なことだが、必要以上に良く眠ることの大切さを知ることになった。

人は誰でも健全な体、健全な精神、健全な性格、健全な生活、そう全てのことが健全と言うことが枕言葉についてくることにより、何か安心感を得られているような気がする。本来それで全てが解決するものではないけれど、未来に向けて取組むときには今が健全であることが大切であり、自信にもつながるから人は誰しも健全さを望んでいる。
posted by Tommy at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月15日

考え方を変えれば

人間生きている限りは如何に生活しやすいと言っても世の中には少なからずわずらわしく思われる人々がいる。そんな時に気持ちを落ち着け冷静に対応する考え方をカール・ヒルティが残してくれている。

ほんのしばらく経てば、我々はもうその人にお目にかからなくなるのであり、それから先になれば、おそらく二度と相見ることはないであろう。だから、我々は、せめてこの短い間だけでも、彼らに親切に接しようではないか。しかし、もし我々がさらに永遠に彼らと一緒に生き続けなければならないなら、なおさらそうするほうが当を得ているのであろう。
<<ヒルティの言葉より>>
posted by Tommy at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ヒルティの言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月14日

野球の思い出

今年の甲子園大会はリオ・オリンピックにおされた感があるが、自分と野球との出会いは何時のことだろうか。子供のころどうしても欲しいと思うものがある。それが大人の目からは何でも無いことではあるが、当人にとってはとても大切なものである。それが自分の場合野球のグラブであったようである。

母をなくした子供にとって何もかもが自信のないものであった。人に恐れ隠れながら世の中を覗き見しつつ歩き続けたそのころの姿であった。そんな中での布製の手作りグラブの存在は寂しさを隠してくれる宝物だったに違いない。しかも、近くの小学校に集まり数人の仲間と見様見真似で楽しんでいた。そんな中で他の村の子供たちに対戦を申し込まれても何も答えられない自分達がそこにいた。

今でも強烈に自分の脳裏の中にあることがある。当時流行った“ノーコメントか!!“という言葉を投げつけられ情けない気持ちになっていた。今思うに全てに自信のないころである。相手は革製の立派なグラブでこちらは布製のグラブそれも人数分なく戦える状況でないと思い込んでいたわけである。今思うに実に情けない頃だったような気がする。

小学生のころだったと思うが、就職していた兄貴に当時貴重であった革製グラブを買って欲しいと手紙を書いた覚えがある。それが届いたときの嬉しさはなんとも言えない気持ちであった。いつまでも大事にして使っていたような気がする。今はどうなっているのだろうかあのときのグラブ。買ってもらったあとどれほど大切に使ったか今は覚えていないけれど、そのときの記憶だけは明確に覚えているものである。
posted by Tommy at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶の底 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月13日

蝉起し始まる

今年も恒例になった蝉起こしが既に始まっている。集合住宅の玄関先の長い50メータ近い廊下で先ず2〜3匹は仰向けになって動けなくなっている。

朝のウォーキングに玄関を出て最初にこの蝉起こしの仕事が始まる。殆どが夜の夜光灯をめかけ飛び込んで来たが、そのまま落ちたところが平らなセメント。運悪く仰向けに落ちてしまったら二度と自力で飛び立てなくなってそのままで朝を迎えた様子だが、いずれも元気で空中に放り投げるとオスは鳴きながら、メスはそのまま羽ばたきして飛んでゆく。

公園の道路にも何匹か慌てる蝉がいるらしく、道路で仰向けに寝ているのにしばしば出くわす。こちらは深刻で人通りの多い危険な場所だけに自転車もジョギングやラニングをしている人が多く可哀想な場面に出会うことが多い。朝の蝉お起こしは無傷で仰向けになって身動きできなくなった蝉を放り上げるだけのことたがこの時期の毎朝の仕事となっている。
posted by Tommy at 04:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 余談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月12日

喜びを与える

他人に喜びを与えること、そのことは誰にでも、病人さえもできることだ。人々に親切を尽くす機会は、人生のいたるところにいやというほどころがっている。めったにないことであるが、もし人間が誰もいなければ、かわいそうな動物や植物から始めてもよい。無尽蔵の愛の泉が存在していれば、それはこのような動植物に対してもそそがれ得るし、またそそがれるであろう。
それにしても誰もが、とりわけどんな病人も、文字通りの意味での「隣人」を十分に持っている。たとえ自分が苦しみに耐えているその忍耐を通じてだけであっても、ひとはこの隣人に喜びを与えることができるのだ。多くの人々にとって、これが健康になるための唯一の方法である。<<ヒルティの言葉より>>
posted by Tommy at 04:00| Comment(2) | TrackBack(0) | ヒルティの言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする