2018年02月21日

八年前の出来事

事件が発生した。住宅で火災が発生した。警報が鳴っていても誰も気がつかなかった。何となく騒がしくなったのと、キナ臭い匂いがして玄関に出てみて黒い煙が八階から出ていた。至急非難するようにと連絡が届き慌てて階段を駆け下りる。当該住宅に入居して初めて十三階もの階段を駆け下り、消火後にエレベータが使えず階段を登って帰宅した。

これまで住宅は二十回前後変わったが、火災にあったことはなかった。それがこの寒い冬の時期に永住目的の集合住宅が火災になったのには少々ショックであった。住人夫婦が高齢になり車椅子生活だったという。娘さん夫婦が途中で駆けつけて来たけれど既に遅しで殆どが燃えてしまっていたようだ。

今回の火災の現場を見て集合住宅での火事の怖さを知る。黒々とした煙がすごい勢いで部屋から噴出して大きな煙突のようになっていた。はしご車も来たけれど殆ど役立たずで、いざという時にどのように役立たせるかという点では問題であったと思う。住人とても高層住宅においては、手助けしようがないだけにただ見ているだけであった。

わが家族も地上まで降りてただ消防士が、あわただしく走り回るのを見ているだけで時たま知り合いが居合わせると、状況がどうなっているのかを話している。一時間ほどで煙が止まり、殆どの住人も又部屋に戻り何事もなかったようにいつもの生活に戻る。残っているのは後片付けの消防士と警察官だけが事後調査を続けている。
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2018年02月13日

時の流れの中で

成田空港を利用しだしてから何年になるだろうか。東京に出てきて会社に入り先輩に連れられてハイキングに行った先が御陵牧場で、今の成田空港の以前の姿であった。当時は右も左もわからない中でつれていかれた。それが当時労働運動の先端にいた組合員に優しくハイキングに行こうと誘われたのが二十歳前で最初の訪問である。

空港が完成するまでは成田闘争といわれるように地主や学生達の大きな抵抗があって完成まで何年も何年もかかっていた。完成したといわれても全体の一部であったりして反対運動が長く続いていたようである。民主主義という言葉に躍らせられて個人のエゴが大事に扱われて来たことが、このような結果を生み出したのだろうか。

社会全体の或いは十分に役立つことのわかっている公共物のためには、個人のエゴと折り合いをつけることも必要なのではないか。都内の幹線道路が立ち退きを拒否する家人のために、そこの家の部分の道路幅が極端に細くなり毎朝渋滞する状況であるといわれていた。今はどうなっているか知らないが、皆の暮らしが発展しているようであればよいのだが。

あまり気にもしていなかったが空港を利用するようになって、過去に大きな闘争があったことを思い出している。それがエゴに基づくものだったのかどうかも今はわからないが、そのような社会的な問題も時の流れの中でいつの間にか落ち着くところに落ち着いてしまった。そして当時大きな社会問題だったことも、今は誰もそれらの問題に触れる人もいなくなった。
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2018年02月02日

北上夜曲

ユーチューブでギター演奏を探していたらひょんなことから我が青春時代の想い出深い曲の一つである“北上夜曲”を見つけた。淡い想いを寄せた娘が通ると電柱や物陰に隠れるほどのシャイな自分だった。そんな気持ちを歌詞にして美しいメロディに乗せたこの曲を聴く度に胸が締め付けられた想いをしたものである。カラオケに行っても歌えないのにリクエストし、感傷的な気分は今でも昨日のような出来事として思い出される曲である。
https://www.youtube.com/watch?v=d4UgprZwdPc
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2018年01月16日

八ヶ岳連峰に

十数年振りに参加した八ヶ岳連峰への一泊二日の一般山行に参加し、八ヶ岳連峰の硫黄岳(2760m)と横岳(2829m)に参加したときの日記が出てきた。あれほど好きだった山歩きをこの数十年間、仕事の関係から遠ざかっていた。そのためか久し振りの山行にとても期待していた。朝の五時に起床、六時五十分までに新宿の集合場所に向かった。

最近は山行きも大変便利になっており、バスで茅野付近まで行き、そこからタクシーに乗り替えて桜台まで行く。途中タクシーが急坂でエンコしたため、後ろから押すことになった。登山道に入ってからは霧がつよく夏沢鉱泉で昼食をとりオーレン小屋について小休止してトイレを借りる。どういう訳かこんな山奥にAEDが納められていた。

オーレン小屋から硫黄岳の道は登山道になり、久しぶりに山の苦しさを感じるも足が弱まっていることを知らされる。とにかく登りがきつく、今にもへたばりそうな状況で硫黄岳の山頂につく。そこから今夜の宿である硫黄岳山荘までは石ころだらけの道を歩くこと20−30分だろうか。最近の山荘は実に快適で平地にいるのと変わらない便利さである。

夜は東京芸術大学の教授をしているという人がカンツオーネを歌ってくれて楽しんだ夜であった。自己紹介をさせられたが機転の利かない自分を思い知ることになった。こんな時ほどしっかりと自分を語れる人間でありたいと思う。山小屋の夜は早い、8時には消灯となる。風薬のパブロンSを飲み耳栓して床につく、お陰で朝までぐっすり眠れた。
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2018年01月12日

父のこと

父は本当に寡黙な人であったと思う。殆ど怒られたことのない子供時代に、同時に思い出すのが話をしたことが殆どなかったことだろう。小さいころは囲炉裏の傍で良く父の膝で一緒に過ごした思い出がある。それ以外は藁で作るむしろを毎日織っていたのが思い出される。夜はそのためか足で踏むマッサージをさせられたのも思い出として残っている。

仕事を手伝うときにも何かをやるにも、殆ど黙って話そうとしない父がそこにいたような気がする。別段話さなくても良いだろうというような感じで黙々と仕事をしていたようだ。特別にキセルで飲むタバコを美味しそうにしていた。一度だけ川魚釣りにつれていって貰ったことがあるが、そのときもそれほどインパクトのあるものでも無かったが、妙に鮮明に覚えているのが面白い。

高校に入ってからは若くして亡くなった母にかわり、家族の食事作りも加わったが何一つ感情の乱れもなく村人から出来た人といわれ満足している様子であった。海軍に長年勤めてアジア各国の港を訪問したこと以外、淡々とした生活を続けて特別に強い意志があるわけでもなかった。貧乏な家計の中で今思うに申し訳なかったと思うが、長距離通学にバイクをねだる自分にも怒るこることなく対応してくれた。

自分自身の生活を楽しむというようなことも無く歳とってからは妹の世話になったが、寂しがりやで妹をいつまでも嫁がせたくない気持ちで過ごしていたようであった。つまり父は寡黙で家族には影の薄い存在であったような気がする。親子とは良く似てくるもので自分もいつの間にか寡黙になって来たと思うこのごろである。
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