2017年12月11日

交流で得るもの

交流とは勿論人と人とのことである。この世に生まれ出て長い年月を過ごしたからとて、交流で得た知己はしれたものである。商売の神様と言われた松下幸之助さえ、その知合いは600人前後であったと言っている。人が知合う限界がこの数字が示すようなところではないだろうか。そんな限られた交流歴の中で何を生み出してゆけるものだろうか。

600人の知己を得た松下幸之助は巨大企業を起こして世のために大きな貢献をしたけれど、そこまで届かない凡人には何ができるのだろうか。一介の勤め人では数十人を知るに過ぎない者が何処までやれるのか全くわからない。しかも、そろそろ時間制限が叫ばれる年齢になっているだけにますますそのことが気にかかる。

一時異業種交流会なるものがブームとなって名刺交換会があちこちで催されたものではあるが、今はその評価も定まりあまり聞かなくなった。いくら名刺交換したとて信頼関係の構築が直ぐに成り立つわけでもなく、時間がかかるということを思い知らされているのではないだろうか。松下幸之助の600名の中身はもっと濃いものであろう。

人を知り、人を頼り、人と協力する。それが長い人生の中で成果を出し続けることに繋がるものである。我が人生を振り返ると成果の出たところには常に人との良い交流がもたらしてくれたことが多い。一方、自分自身が他人に何か成果につながることをしたかと問われれば何一つ上げることはできない。現実の世界では一方的にもたらされるものだ。
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2017年12月08日

羅生門と現代

時代を遡ること一千年、その頃の平安京は天災・地変・疫病・飢饉で民衆の心は乱れに乱れていた世の中であった。死人の髪を抜いて生計を立てる老婆の話から始まるこの短編は時代を置き換えれば今日の金融不況に始まったリーマンショックの世の中に似たようなものである。職を失った人々が町に溢れて施しを得ながら生きながらえているような世の中、何がこのようなことをくり返させるのだろうか。

人間の寿命は長くて100年、その間にエゴと自惚れが交じり合う社会があり時代が流れている。人々はそれぞれに夢を追い求めながら日々の暮らしを立てている。約束事に基づいて生活の糧を得て命を続けている。この社会に暮らす人々の気持ちは、時の事件に触れては右に左に揺れ動いている。其の流れは大きくなって自己統制を超えてしまうところに大きな問題が発生してきている。

人間の歴史では数千年の記録しか残っていないが、自然科学が残してくれた記録では数百万年の昔から栄枯盛衰の歴史の繰り返しである。大きな歴史の流れの中では個の存在は何も残らないほどのものだが、時として歴史上に名前の残る人が現れる。それも又限られた人々の中での記憶でしかありえない。諸情無常の響きありとは平家物語で語られることではあるが実際に其のことを感じるようになってきた。

この世に生きてきたことを恨むことなく、何としても生き抜くことを優先する内容であるこの短編の意図するところは何であろう。現代の世の中は物質に恵まれた上に、食にもどうにかつける状況である。どちらかと言えば当時とは雲泥の差があるけれど精神的な強さという面ではとてもかなわないことだろう。羅生門は諸情無常の世界観を切り抜いて現代に照らし合わせるためのものだろうか。
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2017年11月29日

マグカップ

マグカップ
中南米で働く人からマグカップを頂いた。早速番茶を入れて利用してみるも蓋の横から飲むたびに漏れてくる。何が違うのだろうか日本製のマグと。些細なことではあるが結果を気にする人にとっては大きな不満が残るだろう。日本人はこれを品質問題だと言って徹底的に改良するけれど彼らの国ではその考えが乏しいのだろうか。あるいは少しぐらいの漏れについては気にしない性格でもあるのだろうか。

人間の文化というものは生まれた土地の気候や環境及び風土などによって成り立っている。特別に日本のように人口密度の高い国では人への配慮が必要で、配慮に欠ける性格では仲間から排除されることもある。そのような環境の中ではぐくまれてきた文化が日本文化であり、その細やかさが品質の良い製品を生み出す基になっていると思われる。

物の良し悪しとは使う人が気になるかならないかということだろう。我々が気になることが別の人には全く気にならないこともあるし、その逆として我々が気にならないことが相手には大変気になることもある。ある環境に慣れひさしんでいるものが、同じ機能であってもいくら高価で品質が高くても形状や使い方に不満が残ることもある。

最終的にはそれに慣れ親しめるところまで行けるかどうかになってくるだろう。今回もらったマグカップについても自分が慣れ親しめるほどに使いこなし出来るかどうかにかかっているようだ。折角遠い南米からお土産としてもってきた人の心を無下にすることは出来ない。自分の取るべき道が自ずと決まってくる。本日はマグカップについての考察。
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2017年11月22日

飾り石

数年前に飾り石を四つほど買っていた。近くのモールの五階の催し物会場でたまたま見つけたものである。黒と金と桃それに緑色の四種類の小さな石の塊である。それぞれの石には何かそれぞれ意味ありげなことが書いてあったが、今は全く記憶に残っていない。合計金額にして数千円程度であったが、どうした訳か何かに誘われたように購入していた。

今も本棚の中にひっそりと置いてある四つの石である。願掛けという言葉があり人間は弱気になると殆どの人がそのように振舞ってしまうらしい。自分もその一人のようである。このところ体調がなかなか回復せず自分自身を嘆いていたようである。当時からこの石のような強さと硬さを持った強じんな身体を持ちたいという願いから手に入れたのだろうか。

此処に及んで風邪ぐらいで何をじたばたしている。定年退職してもこれからまだまだやらなければならないことが多くある。自分にはこの世に関りあって行けるギターがあり折り紙がありそしてそれらを通して得た仲間との交流がある。それが購入した四種類いの飾り石にも通じる思いなのだ。硬く強く信じてゆけるよう鎮座してもらっていた。

カラフルな石の置物はそれで何となく自分の本棚の中で落着いて、何か自分をガードしてくれているように思えていた。人は信じれば救われるという昔からの言い伝えがあるけれど、自分の心は石に救いを求めるほどこの一週間の風邪で弱気になっていたのだろうか。ギターとスローライフで残りの人生で元気で愉しめることを願っている。
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2017年11月15日

蜘蛛の糸

蜘蛛の糸という芥川龍之介の小説を電車の中で読み終える。以前老化防止のためと称して紹介されていた音読本の中にあって騙された気持ちで何回か音読した経験があり、今回はその読み直しみたいなものであっという間に読み終えてしまった。別段意図があって読んだわけでもないが、読みかけの蟹工船を読み終えて時間が余っただけのことである。

蟹工船はどちらかといえば労働者の決起を促すような内容で政治的な意味合いを多く含んだ内容ではあったが、蜘蛛の糸は実に単純なストーリーで分かりやすく純粋に倫理的な考えのもとに慈悲を強調している内容であると思う。人間が生きてゆくのにこのような慈悲の心を持ち合わせることの必要性を蜘蛛の糸を使って説明している。

現代に生きる自分たちの慈悲というものはどんな形で説明できるようになるのだろうか。物質文明の中で必要なものはすべて与えられるような成果を続けた現代人はエゴが大きく成長してきている。何事にも自分が先に立つようになり自惚れともなりかねないほどの自己主張もあり、小説の中にあるような慈悲の気持ちさえ分からない人が多いのではないだろうか。

そんなこんなの思いの中で読み返す本は何となく新鮮に思えるものである。それが現代の技術の最先端であるスマートフォンで読めるようになったことも驚きである。時代が変わるといろいろな面で変化がある。特に技術的なものを伴う物質文明は加速度的に変化を続けてきたといえる。一方人間そのものに関することは数千年の時を経ても変わらないものだ。それを教えてくれるのが繰り返し読まれる蜘蛛の糸ではないだろうか。
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