2017年12月30日

ある年の年末日記

今年最後の日曜日である。家でのんびりいつものように読書とギターとオリガミとテレサテンを聴いて過ごす。夕方妻と二人近くのモールに散歩に出掛ける。本屋がある5階がいつも立ち寄るところである。今日は古本とCDの催しがあった。テレサテンのCDを一枚買って古本を数冊購入して新刊二冊を入手する。そこで妻から電話、ドトールでのコーヒーの誘いがある。二人きりでゆっくり出来る時間である。

人生は60歳からが楽しい、手にした本は実に惹かれるタイトルである。ついつい買ってしまったが、自分自身が既にその年代であることを考えるとこの本のタイトルどおりの生活をしたいと思っている。それに菜根譚という本である。処世哲学書として読みつがれている本であり、尊敬する先輩が解釈執筆された本でもある。何れも読むのを楽しみにしている。

休日とは本来どのように過ごすものだろうか。自分の事ばかりが記録されている日記だが、尊敬に値する人達の休日の過ごし方とはどのようなものだろうか。運動を続ける人、趣味の道を探る人、読書を重ねる人、人それぞれの過ごし方があるだろう。どんな過ごし方が良いのかもそれぞれの考え方によることだろう。休日は特別にこうであるべきということは必要ない、それぞれに過ごせばよいことなのだろう。

人生も60歳代になれば休日の過ごし方は自然に形になるようだ。自分の場合がそうであるように読書とギターとオリガミと音楽が静かに流れることで気持ちの良い休日となっている。今は其の幸せを噛み締めながら日々を過ごしている。これまでの自分の人生はそれほど大きな成果はなかった。しかし、休日というご褒美は十分に味わうことが出来てとても幸せである。
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2017年12月16日

記憶力について

ふと思い出したことが、すぐ其のあとで思い出せなくなっていることがある。自分の記憶力が衰えて来たのだろうか、それともこれまでも多くあったことなのだろうか、どちらも定かではない。人の記憶には多くの引き出しがあるけれど、たまたま開いて閉めた箱に何かが入っていたけれど再確認しようともう一度引き出しを探したが、どの引き出しだったかを忘れてしまったような感じである。

記憶の糸口とは一寸したことでたどれる場合もあるが、どうしても見つからないこともある。人はそんな時どのようにとらえるのだろうか。忘れてしまったとするか、一寸と思い出さないだけと考えるか、しばらくしたら思い出すと考えるか、人それぞれにとらえることだろう。自分の場合は期待をしてすぐ思い出すだろうと考えることにしている。

オリガミをはじめてから折ったものも200種類を超えているだろうと思うが、ほとんどのものがその折かたをすぐには思い出せない。これは普通であると思うべきだろう、何故なら同じ折を繰返すことで身につくものだと思う。加齢で記憶が衰えたとは思わないが、数が多くなっていることが難しくしているだけで継続することで何とでもなると理解している。時間を見つけては一つでも多く折ることが大切である。

日々の暮らしの中で前述のようなことで記憶力が弱くなったと考えやすくなっていることは事実である。しかし、それは年齢のせいではなく視野が広まったことにより記憶に残さなければならないことが増えただけであり、時間を掛け繰返すことで身につけられるものばかりである。今考えなければならないのは如何に継続して繰返してゆくかということであり、それだけが記憶にとどめる時間と数を増やす方法である。
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2017年12月11日

交流で得るもの

交流とは勿論人と人とのことである。この世に生まれ出て長い年月を過ごしたからとて、交流で得た知己はしれたものである。商売の神様と言われた松下幸之助さえ、その知合いは600人前後であったと言っている。人が知合う限界がこの数字が示すようなところではないだろうか。そんな限られた交流歴の中で何を生み出してゆけるものだろうか。

600人の知己を得た松下幸之助は巨大企業を起こして世のために大きな貢献をしたけれど、そこまで届かない凡人には何ができるのだろうか。一介の勤め人では数十人を知るに過ぎない者が何処までやれるのか全くわからない。しかも、そろそろ時間制限が叫ばれる年齢になっているだけにますますそのことが気にかかる。

一時異業種交流会なるものがブームとなって名刺交換会があちこちで催されたものではあるが、今はその評価も定まりあまり聞かなくなった。いくら名刺交換したとて信頼関係の構築が直ぐに成り立つわけでもなく、時間がかかるということを思い知らされているのではないだろうか。松下幸之助の600名の中身はもっと濃いものであろう。

人を知り、人を頼り、人と協力する。それが長い人生の中で成果を出し続けることに繋がるものである。我が人生を振り返ると成果の出たところには常に人との良い交流がもたらしてくれたことが多い。一方、自分自身が他人に何か成果につながることをしたかと問われれば何一つ上げることはできない。現実の世界では一方的にもたらされるものだ。
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2017年12月08日

羅生門と現代

時代を遡ること一千年、その頃の平安京は天災・地変・疫病・飢饉で民衆の心は乱れに乱れていた世の中であった。死人の髪を抜いて生計を立てる老婆の話から始まるこの短編は時代を置き換えれば今日の金融不況に始まったリーマンショックの世の中に似たようなものである。職を失った人々が町に溢れて施しを得ながら生きながらえているような世の中、何がこのようなことをくり返させるのだろうか。

人間の寿命は長くて100年、その間にエゴと自惚れが交じり合う社会があり時代が流れている。人々はそれぞれに夢を追い求めながら日々の暮らしを立てている。約束事に基づいて生活の糧を得て命を続けている。この社会に暮らす人々の気持ちは、時の事件に触れては右に左に揺れ動いている。其の流れは大きくなって自己統制を超えてしまうところに大きな問題が発生してきている。

人間の歴史では数千年の記録しか残っていないが、自然科学が残してくれた記録では数百万年の昔から栄枯盛衰の歴史の繰り返しである。大きな歴史の流れの中では個の存在は何も残らないほどのものだが、時として歴史上に名前の残る人が現れる。それも又限られた人々の中での記憶でしかありえない。諸情無常の響きありとは平家物語で語られることではあるが実際に其のことを感じるようになってきた。

この世に生きてきたことを恨むことなく、何としても生き抜くことを優先する内容であるこの短編の意図するところは何であろう。現代の世の中は物質に恵まれた上に、食にもどうにかつける状況である。どちらかと言えば当時とは雲泥の差があるけれど精神的な強さという面ではとてもかなわないことだろう。羅生門は諸情無常の世界観を切り抜いて現代に照らし合わせるためのものだろうか。
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2017年11月29日

マグカップ

マグカップ
中南米で働く人からマグカップを頂いた。早速番茶を入れて利用してみるも蓋の横から飲むたびに漏れてくる。何が違うのだろうか日本製のマグと。些細なことではあるが結果を気にする人にとっては大きな不満が残るだろう。日本人はこれを品質問題だと言って徹底的に改良するけれど彼らの国ではその考えが乏しいのだろうか。あるいは少しぐらいの漏れについては気にしない性格でもあるのだろうか。

人間の文化というものは生まれた土地の気候や環境及び風土などによって成り立っている。特別に日本のように人口密度の高い国では人への配慮が必要で、配慮に欠ける性格では仲間から排除されることもある。そのような環境の中ではぐくまれてきた文化が日本文化であり、その細やかさが品質の良い製品を生み出す基になっていると思われる。

物の良し悪しとは使う人が気になるかならないかということだろう。我々が気になることが別の人には全く気にならないこともあるし、その逆として我々が気にならないことが相手には大変気になることもある。ある環境に慣れひさしんでいるものが、同じ機能であってもいくら高価で品質が高くても形状や使い方に不満が残ることもある。

最終的にはそれに慣れ親しめるところまで行けるかどうかになってくるだろう。今回もらったマグカップについても自分が慣れ親しめるほどに使いこなし出来るかどうかにかかっているようだ。折角遠い南米からお土産としてもってきた人の心を無下にすることは出来ない。自分の取るべき道が自ずと決まってくる。本日はマグカップについての考察。
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