2017年02月11日

時間管理

自分の持ち時間の財務諸表を作っていますか、という問いかけで始まる本を読んだ。その要約は、人はお金に対しては強い関心があり、会計簿をつけたり投資を考えたりと注意を向けている。しかし、日々限りある時間については、関心が薄くましては財務表を作ってまで管理する人は皆無である。理由はお金と違い、時間は24時間全ての人に平等に与えられているというのか、その管理が殆どなされない。

会社経営においても同様であり、人、物、金とは良く言うものの、時間まで話す人は少ない。いかなる事業も時間無しには進まないとわかっていても、その事にふれる事は少なく、ましては、時間を管理して事業を進める人はこれまでお目にかかったことがない。自分自身に照らしてみても、言えることである。これまでの人生で、時間投資について検討したことなどなかったといえる。

人生には時間に限りがある。人の生涯とて100歳を越える人は殆どなく、そのうちの三分の一は睡眠時間で費やし、残りの三分の一は生活に必要な食事や身の回りの世話となり、最後に残った三分の一が何かに使える時間である。8時間が一日で使える時間としたときに、それを何の目的でどのように使い分けるか考えたことがあるだろうか。そのことが財務表をあらわすことになりはしないだろうか。

高齢となり残り少ない人生をいかに過ごすかが問われる中で、この時間管理という感覚は重要な要素であるといわざるを得まい。残りの時間管理でより多くのことを手がけ、より多くの成果に結びつけて行くことが出来れば、自分がこの世に生まれ出た意義も再確認できるだろう。
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2017年02月06日

涙腺緩む

歳を取ると涙腺が緩むとは良く言ったもので高齢になった自分のことではないかと思う。一寸した心温まる話や、親切、友情、助け合い等、何故か知らないがそれらを見聞きして自然に涙が出てくることが多くなった。若い頃の何が何でもと考える気持ちも薄れて、世の中の現実から見出せる温かい気持ちの伝わるものに涙することが多くなっている。

感動という言葉も別にあるけれど、これは年齢に関係なく使われる言葉である。特に若いときに何かに夢中になり、それがなんらかの成果を得た時には特別に大きなものとなっている。涙腺が緩むというのは、少々それとは違うようである。どちらかといえば、前述したように歳を取ってからが多く経験することのようだ。

人の一生は、いろいろなことに例えられるけれど例えようもないのがあるようだ。それが、年代ごとの感情の流れではないだろうか。人間以外には、それが生まれないだけに例えようがないのだろう。たとえば、動物が歳をとると泣き虫になるかといえば誰もそれを感じた人も見た人もいまい。歳をとった動物を見て涙を流すのも人間だけである。

涙腺が緩むとは実に上手い表現である。微妙に震える感情の動きを表現するのに、これほど的確に表現する言葉はない。我々は言葉も動作も考えも自由ではあるが、それらを使ってより多くの人の気持ちを捉えることが出来るし、失うことも出来る。そんな多くの表現方法の中にある一寸したこの言葉だけど、時には全身を震わせる。人間とは何とすばらしいものを考え出すものだろう。
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2017年02月03日

時計考

自分にとって時計とは何であろうか。勿論日々の時を知らせてくれるものであり、時間の経過を知らせてくれるものであり、場合によっては事の始まりを教えてくれるものでもある。日常の生活の中においては、既になくてはならないものの一つになっていることは間違いない。そこで、自分にとって時計とはなんだろうかと考えて見たい。

一日が24時間という考え方について、誰が何時決めたことなのだろうか。地球の自転からその時間が決まったのだろうと思うが、中々面白いものである。これが10時間或いは20時間でも良かったのではないだろうか、半端な数字の24時間とは面白い、年間の日数も地球の中途半端な回り方で365日になったり366日になったりしている。

人生も長いとか短いと言っているようだが、何を基準に言えたことだろうか。以前読んだ雑誌か何かで体の大きさで時間も変わるという話があった。たとえば像のように体の大きいものは時間がゆったり流れて、体の小さなネズミなどは時間が非常に速く流れているという。そのために寿命も像が長くてネズミが短いという。実に単純な話ではあるが、同様な話を、長さや大きさの比較についても聞いたことがある。

人間は、宇宙のような大きさからビールスほどの小さなものまで、その大きさを知ることが出来るという。なぜならば人間は大きさという点からは、両者の中間点にいるからだという。果たして時間についてはどうだろうか、人間の感じる感覚からして、最も長い時間から最も短い時間の中間に位置したものが、時計になるのだろうか。
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2017年01月23日

どちらを先に食べる?

人間如何いうわけか食べ物を前にして、凡人は美味しくないものから先に食べて、おいしいものを後でゆっくり食べようとする。だけど満腹になってからおいしいものを食べたって、うまいとは思わないのに如何してかそのことにこだわっている。

一方、非凡な人は自分の好きな食べ物から先に食べておいしくないものは後に残す、場合によっては全く手を付けない。この違いは生まれつきの性格らしいが、生涯同じように続くかというとそうでもない。何かのキッカケでこの習慣が逆転する人もいるので面白い。

何十年後に再会したときに美味しくないものから先に食べていた人が、美味しいものから先に食べ始めているのに気づくことがあるが、ほぼ例外なく積極的で明るい性格の人が多い気がする。一方以前と変わらずその順序にこだわっている人は消極的で何となく暗い性格な人が多い。

人生の途中で食べる順序を美味しくないものから美味しいものを先に食べる方に変えた人ほど現在を愉しんでいるようである。知人と再会し食事を共にするたびに、何か面白い現象に思えるが、本人が変ったキッカケになっている原因と理由が分かれば将来何かに役立ちそうだ。
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2017年01月10日

目薬考

目薬の遍歴は大変なものである。高校時代だろうか近視が進んだとき、何かの宣伝に近視が治るという広告がありその目薬を買ってみたのが始まりだろうか。眼鏡をかけるのが嫌で何の役にも立たない目薬を買い求めて治そうと試みたが結果は変化なし。その後社会にでて同じように疲れ目対策に市販の目薬を買い求めたが、それも全く同じ結果でしかならなかった。

その後も同じで疲れが溜まり目頭が痛くなれば目薬を買い求めて対処療法を繰り返してきたように思える。それは眼鏡を常時かけるようになっても同様で目薬を買い求めては対処療法を繰り返して来た。自慢できることではないが目を酷使してきたことは事実でありそのために多くの本を読むことが出来た。しかし、本を見れば前頭葉が痛くなる現象は今も続いている。

人間の目とはどうしてこうも疲れやすいのだろうか、最近のPC利用のためだろうか、それとも継続してきた読書のためだろうか。あえてどちらであろうとかまわないけれど、何かはっきりとした成果が出ていればそれも良しとすべきだろうが、結果が見出せないだけにこればかりは分からない。それにしても目とは大切なものである。

最近は老眼が進み眼鏡を外して見ることも多くなったが、生きて来た人生の中で目が見えたことによる成果ははっきりしているだけに今後も目の大切さは変わらない。いろいろと文句は言うものの目薬を買い大切にすることは今後も必要なことだろうと思う。
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