2017年07月13日

疎外感

誰しも人間が感じることのあるこの気持ち、決して落ち着いて対応できるものではない。それだけに疎外感を感じた人はネガティブ思考になってしまう。自分は相手にされていないのではないか、自分を外そうと考えているのではないかそんなつまらない考えを浮かべがちになる。疎外感はあくまで感情であって事実と異なることが多いのだが、それでも頻繁に起こるものである。

何か事を起こそうと考えるときに人は皆まわりを疑心暗鬼に探り始める。そこに解決できる確固たる情報はないと分かっていても人間の性というものだろうか。昨日で退職して四年が過ぎて人生これからどんなことが待っているのだろうか。自分ながら先の見えない不安が残るが前向きに対処してゆかなければならないと考えている。

現実の厳しさの中でなかなか思うように行かない中で不安定になりがちな心情を反映してかこの疎外感というものを考える。何としても自分の夢を実現させる必要があるだけにこのような考えが横切ることさえ許してはならないと思う。もっともっと自分を磨いて社会に貢献できるように成果を出してゆきたい。
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2017年07月04日

ふと思うとき

人の気分というものは何故か理由もないのにわくわくするときがある、不思議なものである。これまでの人生で何回このような気分になったことだろうか。何か御心に満たされた気持ちが、自分の中に生まれてきているのだろうか。それにしても、こんな気持ちで毎日を過ごせるならば人間として何と幸せなことだろう。

何か人間には感覚としてはっきりしないが、何かを感ずるときがあり人々はそれを持って第六感が働くとも言っている。今自分が感じているのがその六感だろうか。現実的にはギター練習は上手く行かず、何か大きな壁にぶち当たっているようなものである。しかし、日々希望を捨てずに取り組めていることへの安心感への感謝なのだろうか。

いずれにせよ何かが今の自分の気持ちを高揚させていることは間違いない。この年齢になって自分の好きなことに取組めることは大変うれしいことであり、それを何らかの成果として社会に貢献できればこれも又素晴らしいことになる。自分の中に芽生えたこの何かを大切に育ててゆきたいと願っている。
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2017年06月19日

米国と欧州の違い?

日本人は米国の影響が強く米国の考え方が自然と社会生活に溶け込んで来たような気がするが、最近面白い考え方だなと思ってついつい読んでしまった文章がある。

一般的に米国人は変革こそが人生だと考えます。人は生来の性質や能力は変えられるものだと考える人が多いようだ。一時ベストセラーとなっていた自己啓発書や成功物語などは自分や他人を変え会社や社会の環境を改善することを奨励するのであふれていた。人間はどうありたいかという事について良く考えさえすれば、そのとおりの人間になるであろうとされている。人間は認識さえすれば、自分を作品のように作れるというわけだ。

それに反して、歴史の古い欧州では人類は同じ過ちを繰り返してきたので、人間はあまり変わらないものだと考えている。人間は自分をどうしようと考える前に、自分がすでに作品として出来上がっているのだ。人間は、こんな人になりたい、あのような人になりたいなどと決心しても無駄であるし、別人になることもできない。彼は以前のままであるし、自分がなんであるかを徐々に認識するだけである。人間はなりたいような人間になることはできない。
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2017年06月12日

未熟を考える

未熟な人間と良く言われる言葉だけど、その内容はどのようなものだろうか。人それぞれに尺度を持っており、それに基づいて意見を述べていると思われる。自分に照らし合わせてみても、どこかにその基準を求めながら判断しているような気がする。そこで表に出てくる間際まで比較検討を重ねると同時に、場合によっては自分の意見がどのように受け取られるかと考えながらも発言もしている。単純に自分の持っている基準だけで比較判断しているようでもある。

何か事をすすめるにあたり思うことは相手の発言や行動、或いは過去の対処の仕方を念頭にしながらそのレベルを推し量り、己の基準とする習熟度と比較する。或いは他の人々の様子を見ながら、それらと比較することもあるだろう。しかしながら、未熟であるとか、成熟しているとか、場合によっては青二才などと言う場合もあるが、人を評価することには間違いないだけに、それは大変傲慢なものであるといわざるを得まい。

歴史のなかで交わりのあった人々の中では、これら評価の繰り返しであったことだろう。それによってもたらされた幸せや不幸せのドラマが小説となり、記録となって残っているのだろう。それは喜劇であったり、悲劇であったり、残酷であったり、心温まることであったりと千差万別の様態をなして、この世界が作られて来ているのだろう。不思議な何かを感じざるを得ない。

時として思うことは、果してその様な状況で絶対的な基準と言えるものがあるのだろうか。人それぞれに違う考えや見かたを持っている中では、同じものを評価するにも違った評価が出てくるのではないのだろうか。その様に考えると未熟と言う言葉の評価も人により成熟にもなりうるだろう。人それぞれに異なる評価が生まれるとすると、評価する人の問題はどうだろうか。その人のレベルが高いかどうかでも変わるとなると、寧ろ評価する人のレベルがどうかと考えるのが、実務的な考えになるかもしれない。
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2017年06月07日

達磨と鏡

たまたま知人と食事を一緒にすることになり、話すときの目の動きが気になった。これまで多くの人々と顔を合わせて話をしてきたが、日本人には相手の顔を見ながら話すということが苦手のようである。勿論自分も同様であると理解している。それを変えるきっかけを得て、今のような習慣にすることが出来るようになったのだろう。

社会に出たての頃、田舎育ちの自分には何となく劣等感から人前で話すことは苦痛でしかなかった。たまに人と話すことがあっても、まともに相手から目を向けられると気分が落ち着かずそれを避けようと早口になったり眼を背けたりしていた。ある時たまたま手にした自己啓発の本を読んで面白いと思って鏡と達磨を置き始めた。

それ以来、自宅に鏡と達磨を置いている。これは自分が相手の目を見ることの恐れを無くするために役立ってきたと思う。人は皆、自分に弱さがあると他人の眼を避けたいという気持ちが自然に起きて来るらしく,無意識に目をそらすようである。それに打ち勝つために毎朝鏡の中に映る達磨と自分の眼を見ながら無意識に話しかけている。

これからの人生の中でも同様な無意識の癖があるだろう。それを克服することも重要なことだが、先ずその癖に気づくことが第一である。気づくことなしには人は自分自身を変えることは出来ない。その意味で自分が納得できることを教えてくれる鏡というメンター同様の存在は重要である。気づいてからは直すも直さないも全て本人しだいである。
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