2017年02月28日

整理整頓

社会生活で整理整頓という言葉がしばしば使われるが、最近になってようやくその意味するところの大切さを知ってきたような気がする。特に机の上が、整理されていないということは、その人の頭の中が整理されていないことを意味する。頭の中が整理されていないということは、考え方に論理性が無いとも言える。人生において論理性の無い行動は、後々の成果が見込めないのではないだろうか。

短期的な見方から頭の切れるすごい人だとか言う話はあるが、その人が中長期的に見ても成果を出して、何らかの貢献をしているかといえば決してそうではない。人はおかしなものかも知れないが、鈍くさいといわれていた人が、長期的に成果を出していることが良く見られるが、これらも何か一つ整理整頓への執着心が絡んでいるようだ。

人間の価値は何で測ることが出来るのだろうか。良く使われる言葉は、前述の成果である。その成果が大きければ大きいほど、その人の価値が高いと思われているようである。しかし、果たしてそうだろうか、自分では他人の心の弦に共鳴できる人が重要ではないかと思っている。それは、全く成果を出すことの無い人かも知れないが、心を通わすことで相手の力を十分にみなぎらせる働きをするのではないか。

整理整頓の話が、なんとなくずれてしまったようだが、整理整頓できる人の心が大切であるということではないだろうか。生きてゆく人生の中では、めぐりあう人との交流が十分に出来て出会った後の心にさわやかさを残せる人が、成功者であり成果を上げているといえるのではないだろうか。常に心が美しく輝いている人とは、そんな人のことかもしれない。
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2017年02月25日

自由の側面

自由という言葉は如何様にも取れる言葉だ。それこそ何でも何の束縛もなく気ままに振舞っていいと言うようにも取れるし、大きなリスクを目の前にして、進むか避けるかを選択するようなときでも使う言葉である。人生の中で幾度となく使ってきた自由と言う言葉は、その時々でどちらに属したのだろうか。圧倒的に自由気ままの方に使ってきたような気がする。ましてはリスクを取るような場合は他人への責任転嫁で進めてきたと思われる。

自由という言葉は時には重くのしかかるし、無責任にもつながるものである。自分の人生をどう選択するかは最終的に自分に跳ね返ることであり、他人に向ければ結果に責任を持たないものである。そんな中で今ある自分の生活も選択の自由の中から生まれてきたことであり、他人の失敗に対して影響したとすればそれは責任を果たしたことにならない。

日々の生活の中にどんな立場で向かうかということは、その人個人の将来にかかってくることだが、至って人間はそのことに気づきにくいと思う。時として何の兆候もないのに大きく悩むことがあったり、危機が目の前にあっても気づかなかったりとする。いずれも起きうる人生の出来事ではあるけれど、悲しい人間の性かもしれない。

自由という言葉の意味を知り確実に成果を出せる人間は少ない。それだから仕事の成果を図るにどれだけ自由という言葉を理解しているかを知ることも面白い。自由ということはそれだけで多くの思いが浮かんでくる言葉でもある。実に面白く深みのある言葉でもある。
自由万歳と叫ぶ言葉の裏にはそのような気持ちもあるのかもしれない。
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2017年02月24日

選択

選択という言葉は何となく軽く響く言葉に思えるが、実はその積み重ねが現在の自分の姿につながっていることを考えると疎かにはできない。人は皆その時々に応じて自分なりの選択を続けている。その選択の基準は長年受け継がれたその人それぞれの文化が根底にあるのだろう。それが顕著に現れるのが宗教戦争であり地域紛争であるようだ。それだけに自身の選択がどうかということを知ることは大切なことである。

言葉の定義としての説明も広範囲にわたることもあるだけにこの選択という言葉の難しさだろう。学生時代においては自分の進むべき道も選択だし、身近な例では服の選択、食事の選択、ましては好みの色の選択、実にさまざまな選択のレベルがある。そのような中において人は選択を続け続ける。その結果がその人の人生を左右するのだから当然のことだろうと思う。

人はそれぞれの人生を歩んでいるだけに選択の結果は大きな違いとなって現れる。それが今この地球上で生活を営む人々の違いになって来ているのだといえる。人種の違いにあるように肌も考えも価値観も違う世界が生まれている。それぞれが作る世界も大きな違いとなって今日の世界が出来上がっているのが現状である。

果たして自分の選択が最良の選択だったのか誰が判断するのだろうか。結果の現象は誰もが見えることだが、満足感というものは当事者でなければ感じることができないことでありそれをもとに判断するとなると結論はたった一人の当事者だけの話になってしまう。人生短い中で何かを選択して何らかの形が出来上がるがそれをもって皆が判断することは以外とおかしなことである気もする。
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2017年02月22日

家族写真

何時ごろからそうなったのか正確には覚えていないけれど、机の上に家族写真を置くようになった。以前にはとても考えられない習慣であったが、海外の販売会社を歴任する内に、現地社員と同じような感覚になってしまったのかも知れない。家族で川崎太子にお礼参りに行ったとき撮った写真が、今机の上にある。とても気に入っている写真だ。

自分にとって家族は宝物である、二人の大切な息子と愛する妻がいて長年の夢が実現している。子供のころの思い出に残る淋しさを繰り返してはならないと思うに、大切に思う心を忘れてはならない。時として意見の合わないときもあるかもしれないが、お互いが家族を大切にしようという気持ちがあれば、しっかりとした絆となる。若くして亡くなった母が、我が家族が幸せに暮らせることを見守ってくれていると思う。

時として事件も起こることもあるが、それも家族の絆を強めるものであって弱めるものではない。昔から家族のつながりは大切とされ守られてきたと思う。それが真実である。人は時として一人のときを好むこともあるが、それは個の成長のためにも必要なことではあるけれど、家族の絆を緩めるものではない。そのためにも家族の写真は、常に目の届くところにあって欲しいものである。

どんな写真も今では何の苦労なく手に入れることができるが、自分の子供のころはそれが適わなかった。それが証拠に今は当時の写真が殆どない。貧しき時の写真が数枚残っているが、他人には見せられない。亡き母の姿もそこに見られるけれど、自分だけの宝物としてそっと持っていたい。そしていつでも笑い顔に届くように近くにおいておきたい。
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2017年02月15日

知力とは

果たして知力とはなんだろうか。知の巨人という言葉も何らかの本で読んだことがある。多くの知識?学問?財力?具体的には何を示すのだろうか。なかなか正確な説明がつかないし、理解が難しい言葉である。そろそろ人生のゴールに達するであろう自分がそのことを完全に理解していないとは、情けないことではあるけれど。

ものの本によると知力の巨人といわれる人がいる。その名をピーター・ドラッガーというオーストリア生まれで米国移民となり米国の巨大企業のG.M.のコンサルとして名をなした人である。その人の書いた本の数々は組織や管理について述べてあり、それらを知る人にマネジメントの神様と言わしめるだけの内容の濃いものである。ビジネスに関する多くの書物を読み進む内に最後にはたどり着く本でもある。それだけ多くの人に読まれていることには間違いない。

自分も多くのことに取り組んできてはいたが、なかなか思うに任せないことが多かった。人はそれぞれ思い思いの考えのもとに、学び実践してなんらかの成果を出してこれまでの生活を支えてきたといえる。それでも更なる成果を上げる難しさは常に立ちふさがる。そんな時必要なのは、新たな知識でありノウハウであるかも知れないが、特定は出来ない。

ここで言う知力とは、この特定できない何かを感じ取ることの出来る能力ではないのだろうか。新たな問題、新たな挑戦、そのような時にこれらを乗り切れる知恵や知識等を生み出すことの出来る力が必要になります。それがここで言うところの知力ではないのだろうか。今の自分にそれが十分にあるとは言えないので、これからも求め続けたい。
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