2016年06月05日

運動会

近くの中学校から賑やかな声とマーチ音楽が聞こえてくる。我々の中学生時代は運動会というのは秋と決まっていた。そして、当日は校庭を埋め尽くすほどの人出があり、色々な出店が並んだ道を通って学校の運動場に家族と一緒に出掛けたものだった。

運動会は学校だけではなく地域や村の大きな行事の一つになり、家族総出で応援に駆けつけていた。会場は地域や村ごとに場所が決まっていて、生徒だけでなく村ごとの対抗意識が強く大きな旗を掲げて応援合戦にも熱がはいり凄かった。

そして平成の今は大きく違って来ている。生徒の健康を考えて日中の暑さを避けて今の時期に運動会を行うようになって来た。生徒の数も激減して広すぎるグランドはガラガラの状態の中、気持ちだけのテントが張られ家族数も限られているようである。時代の流れというものは社会現象も一緒に変化して行くのだろうが団塊世代の運動会を知る者は淋しい。
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2016年04月21日

山吹

無口の父が故郷の敷地内にあった山吹の花を見ては「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」と言っては太田道灌にまつわる話をしてくれた。

若き日の太田道灌が蓑を借りるべくある小屋に入ったところ、若い女が何も言わず山吹の花一枝を差し出したので、道灌は怒って帰宅した。後に山吹には「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」の意が託されていたのだと教えられ無学を恥じたという話を毎年してくれた。

近くの公園では今年も又黄色い花を沢山付けて今は亡き父を思い出させてくれる。
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2015年11月10日

美しき空席

いつどこで読んだ本だったか今は忘れてしまいましたが、忘れたくない話として下記記事が残っている。それは数十年前の月の美しい土曜日の夜のことでした。この話を残してくれた人が現地の日系人と一緒にドライブにでて、眼下に海を見下ろす瀟洒なレストランで夕食をとりました。そこに入ってすぐに目に付いたのは花をいっぱい飾って、二本の特別に大きなローソクを点した窓辺のテーブルでした。いうまでもなく予約席です。

その近くに案内されて、どんな人たちがこのテーブルに着くのか、そして今宵何を祝おうとしているのか、非常に興味をそそられたそうです。花は純白の百合や菊、カーネーションといったものばかり、ローソクは2時間たっぷり持つもので、窓から吹き上げる潮風にも消える気配のない大きさだったそうです。 

ゆっくり食事をとりましたが、とうとう最後のデザートになっても、予約席には誰もあらわれません。ローソクもすっかり短くなりました。それまではたいして気にしてはいなかったのですが、気がつくとマネージャーと給仕長は通りかかる度に立ち止って情のこもったまなざしで、そこだけポッンと空いているテーブルをジッと眺めているのです。それがいかにもやさしく、それでいて妙にもの哀しいそうでしたので、マネージャーに聞かずにはいられませんでした。すると哀しいいわれがあったのです。

「ちょうど五年前の今夜でしたが、結婚式をあげた若夫婦が、このテーブルでお祝いの食事をなさいました。ローガンさんという船の乗組員のご夫婦で、やはり今夜のように花を飾りローソクを立てましてね、とても幸福そうでしたから私どももはっきり記憶しているのです。次の年の記念日にもやはり二人で見えたのですよ。そして同じテーブルで食事をなさったのですが、三年目には五ドルの為替と電報だけが来たのです。奥さんは乳癌で亡くなられ、自分は航海中でこられない、しかしあのテーブルは自分たちのために予約済みにしておいてくれないか、という文面でした。 

あの清らかな美しい奥さんが・・・・と私どもは、びっくりしてご希望通りにしたのですが、それから毎年決まって為替と電報が来るのです。昨年はヨコハマ、今年はロンドンからまいりました。きっと今頃、ローガンさんは遠くの空で亡くなった奥さんのことを想っておいででしょう。」 

そう話すマネージャーの言葉をききながら、なんとすばらしい話なのだろう。私は深く心をうたれました。それと同時に、マネージャーの心づかいをうれしく思いました。卓上に飾られた花代だけでも五ドル以上のものだったから・・・・もっと話を聞いているうちに、この五ドルの為替がそっくりローガンさんの奥さんの眠っている教会に、年々献金されていることを知って、私も同席の日系人も、人の心の美しさにますます感動してしまいました。 

花を飾った中で燃え続ける大きなローソクの炎が、かつての日のやさしい愛情に結びついていく美談は、まるで現実を超越した一篇の詩を誘うような美しい話ではないでしょうか。 もう、あれから数十年以上にもなりました。ロサンゼルス郊外でのほんとうにあったお話だということです。
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2015年08月24日

友の言葉

小学二年生のころその友が言った“そんなこと聞くなよ、可哀想だよ!”が心の底で大きな励ましとなって涙が何時までも止まらなかった。

その年の2月に優しい母を失くして孤独な気持ちに陥っていた時に、他の同級生が“かあさん死んだんだってね?”と陽気な声で話しかけてきた。それを聞いていつもは大人しい友が同情したのか、小さな声で話しかけた同級生に言った言葉だった。何年か後に人づてに聞いた話があった。当時同情してくれた友の家族は母親が生活に疲れたのか一人家族を捨て他の人のもとに走った。残された父親のもとで彼は幼い兄弟と共に長男としての道を歩き始めた前後で本人も心に大きな痛手を負いながら過ごしていた事実を。
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2015年08月19日

孟宗竹と辛抱

三十センチ物差し{定規}の材料として以前は孟宗竹が多く使われていた。その孟宗竹を竹山から切出して物差工場に納める仕事が業として成り立っていた。

当時は現在のような軽自動車がなく、世の中にも珍しい外国製のスクータにいつも二人乗りして村中を走りまわるご夫婦がいた。当時夫婦でスクータに乗ることのなかった村人には羨望の眼差しで見られていた。農閑期は孟宗竹の切出しをされてすこぶる羽振りの良い生活をされていた。アルバイトの一つとして切出した孟宗竹を一カ所に集める仕事を手伝ったことがある。孟宗竹は太くて長いので中学生が一人で担いで運べるほど軽くはなかった。私の仕事は奥様と二人して両端を担いで運ぶ仕事で運んだ本数に応じてお金を貰えた。人間成功するには辛抱が第一でお金も辛抱することで稼げるが口癖だった。しかし、その仕事も世の中にプラスチック製の物差しが出てきて直に無くなってしまった。
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